頼久寺

付近住所 岡山県高梁市頼久寺町18 


天柱山 安国頼久禅寺
臨済宗永源寺派で本尊は聖観世音菩薩である。足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一つである。境内左奥には寺号になった中興の開基松山城主上野頼久公の墓と戦国期織田信長の中国制覇と毛利一族の中央進出の戦である備中兵乱で、天正3年(1575年)に悲運の死をとげた備中松山城主三村元親公の墓、一子勝法師丸の墓、父家親公の墓がある。国指定名勝の庭園は備中国奉行 小堀遠州公の初期の作庭(1605年頃)である。

頼久寺庭園(国指定名勝)
 慶長9年(1604)小堀新助正次の後を継いで備中の代官となった小堀遠州は、この頼久寺を仮の館として政務にあたりました。庭園はそのころ遠州の手によって作庭されたものと伝えられています。青海波を形どったサツキの大刈込みを背景に鶴亀両島を配した豪壮な手法が見られる県下随一の寺庭で江戸初期の枯山水庭園の代表的なものです。一般に鶴亀の庭と呼ばれています。

戦国兵乱の世 天正3年備中松山城主三村修理進元親は故あって毛利と離れたため 小早川隆景を総帥とした毛利8万の攻囲を受け 戦火は備中一円に拡がり激斗半歳 戦運利なく元親はすべての出城と将兵を失い本城も落城 6月2日奥灘の松連寺で自刃した その子勝法師丸は井山宝福寺に預けられていた 輝元はその俊英凡庸ならざるを見 三村家再興をおそれて井山谷で之を斬った
  夢の世に幻の身に生れきて
     露に宿かる宵のいかづち
時に8才戦国の習いとはいえ痛ましい最期であった 星霜うつり昭和の中期 井山の里人により奇しくも深草に埋れた勝法師丸の供養塔が見出され回向されていた 其後有縁者により祖父家親父元親の眠るこの墓側に移し その霊の永遠に安らかなるを祈った
元親4百年に当り 幼くして散った勝法師丸の冥福と悲運のうちに滅び一族に殉じた多くの将兵の霊を弔うため一碑を建立する